娘さんが置いていった、ふわふわの新しいスリッパを前に迷った日
面会の帰り、88歳の方の居室に、紙袋がひとつ残されていました。中身は真新しいスリッパ。淡いピンクで、履き口にふわふわのボアがついた、見るからに暖かそうなものでした。
「娘が買ってきてくれたのよ」
その方はその日のうちに履き替えて、嬉しそうに廊下を歩かれました。わたしはその足元を見て、少しだけ言葉に迷ったんですよ。
理学療法士として介護の現場に入って、もう15年になりますかね。歩行の様子を見てきて、いちばん言葉を選ぶのが、実はこういう場面なんです。今日は、贈り物のスリッパと転倒予防の、ちょっと悩ましい話を書きますね。
ふわふわのスリッパは、足元で何を起こすか
歩き方を見る仕事をしていると、履物はどうしても気になります。あのスリッパは、かかとがなくて、底が柔らかくて、履き口が広い。つまり、脱げやすくて、床に引っかかりやすい形なんですね。
その方は、すり足ぎみの歩き方をされます。つま先が上がりにくくて、床をするように進む。かかとのないスリッパだと、一歩ごとにスリッパが足から半歩遅れてついてくるんです。
翌朝、食堂までの廊下を歩かれるところを、少し離れて見ていました。およそ10メートルの間に、つま先が二度、床に引っかかりかけました。ご本人は気づいていません。手すりに手が伸びたのは、そのうち一度だけでした。
ヒヤリとしました。
でも同時に、その方が「娘がね、買ってきてくれたのよ」と、すれ違う職員のひとりひとりに嬉しそうに話しているのも、見ていたんです。
履物としては、替えてほしい。でも、あのスリッパは履物である前に、娘さんからの贈り物なんですよね。取り上げるようなことは、したくない。この二つの気持ちの間で、わたしはしばらく動けませんでした。

「危ないので替えてください」と言った、むかしの失敗
実は、似た場面で失敗したことがあります。もう10年近く前になりますか。
やはりご家族が持ってこられたスリッパが気になって、わたしは電話でこうお伝えしました。「転倒のおそれがあるので、かかとのある靴に替えていただけますか」と。
間違ったことは言っていないはずでした。でも、電話口の娘さんは謝ってばかりでした。そして次の面会まで、いつもより間があいた気がしたんです。よかれと思って選んだ贈り物を「あぶないもの」として返されたら、自分が責められたように聞こえますよね。
わたし、こういう場面ばかり覚えていて困るんですけど、あのときの電話の声の沈み方は、いまでも耳に残っています。
だから今回は、ひとりで動く前に主任さんに相談しました。主任さんは少し考えてから、こう言ってくれました。「電話じゃなくて、面会のときに一緒に見てもらうのがいいんじゃない」
伝える内容は同じでも、順番と場所を変えてみる。結論を先に渡すのではなく、娘さんご自身の目で、足元を見てもらうことにしたんです。

履物の話は「足」から入ると、すれ違いにならない
次の面会の日、娘さんに声をかけました。「お母さまの足、少しだけ一緒に見ていただけますか」と。スリッパの話は、まだしません。
椅子に座っていただいて、靴下を脱いだ足を三人で眺めました。爪の伸び具合、甲のむくみ、指の曲がり方。娘さんは「足だけ見ると、年を取ったなあって思いますね」と、少し笑っておられました。
それから、廊下を数メートル、親子で並んで歩いていただきました。わたしは横で歩き方を見ながら、「つま先が上がりにくくなっているの、分かりますか」とだけお伝えしました。すり足の音と、スリッパが一拍遅れてついてくる様子は、隣で見ると言葉より先に伝わるんですね。
「これ、脱げそうで怖いですね」
先にそう言ったのは、娘さんのほうでした。わたしは「この歩き方だと、かかとまで包んでくれる室内履きが安心なんですよ」と、ひとこと添えただけです。娘さんはその週のうちに、かかとのある室内履きを買い直してこられました。
ふわふわのスリッパは、捨てられていません。居室の椅子でテレビを見るときの「くつろぎ用」に役割が変わって、いまもベッドの横にあります。歩くための履物と、くつろぐための履物。分けただけで、どちらの気持ちも守られた気がしました。

持ち物リストの一行を、書き換えた
この一件のあと、施設の入所案内を見直しました。持ち物リストに「スリッパ」とだけ書いてあったんです。これでは、ご家族がふわふわのスリッパを選ぶのは自然なことですよね。届く前の一行が、届く履物を決めていました。
主任さんと相談して、その一行を書き換えました。「かかとのある室内履き(スリッパは脱げやすく、転びやすいため)」。たった一行ですが、入り口の言葉が変わってから、面会のたびに届く履物が少しずつ変わっていきました。
あわせて、申し送りにも小さなお願いをしています。履物が新しくなった方がいたら、一言入れてもらうこと。履物が変わった直後は、歩き方も変わりやすい時期だからです。夜勤の方が「今夜から室内履きが新しい方」を知っているだけで、見る場所がひとつ増えます。
贈り物を「あぶないもの」として返すのではなく、選ばれる前の一行を整えておく。転倒予防って、廊下や居室の中だけでなく、案内文の中にもあるんだなと思った出来事でした。

皆さんの現場では、ご家族からの贈り物の履物、どんなふうに伝えていますか。
理学療法士
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介護施設で 10 年以上、理学療法士として現場に入ってきました。主任さん・施設長さん・ケアマネさんが翌朝の申し送りで使える「段取り」を中心に、移乗・転倒予防・家族面談・引き継ぎノートの整え方を、現場を責めない温度でまとめます。
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