食堂の『特等席』をやめた日
10時、おやつの支度が始まる少し前。食堂の窓際の丸テーブルから、88歳の女性がすっと一人で立ち上がりました。
わたしが気づいたのは、廊下の角を曲がった瞬間です。見えていたのは、うしろ姿だけでした。
椅子の脚が床をこする音がして、振り向いたときにはもう、片足が一歩前に出ていました。間に合いました。でも、あと三歩遅かったら、危なかったと思います。
その日の夜、家に帰ってからも、あの背中がずっと頭に残っていました。もう15年になりますかね、こういう場面ばかり覚えていて、自分でも困るんですけど。
この方は、いつもその席に座っていました。庭の花壇がいちばんよく見える、みんなが「特等席」と呼ぶ場所です。でも詰所からは、ちょうど死角になる位置でもありました。
「特等席」は、誰のための席だったのか
その席は、もともとご家族の希望で決まった席でした。半年ほど前の家族面談で、息子さんから「母は花が好きだから、庭が見える席にしてあげてください」とお願いされたと聞いています。
気持ちは、よくわかります。わたしも同じ立場なら、きっと同じことを頼んだと思います。
ただ、そのあとが問題でした。席替えの基準が、一度も見直されていなかったんです。好みで決めた席が、そのまま何年も固定されていく。特養の食堂では、よくあることです。誰かに悪気があったわけではありません。
申し送りノートを見返してみても、「窓際の席、変わらず落ち着いて過ごされています」という一行はあっても、「その席から職員がどう見えているか」を書いた記録は一つもありませんでした。
転倒予防の視点で見るべきなのは、本人がどこを向いて座っているかより先に、職員からどう見えるか、なんですよね。窓を向いて座れば、庭はよく見えます。でも職員側からは、背中しか見えません。
歩行の評価では、この方の立ち上がりに手すりや支えは必要ないと出ていました。だからこそ余計に、誰も「見守りが必要な方」だとは思っていなかったんです。動ける方ほど、死角に置かれやすい。そのことに、わたしはあの日まで気づいていませんでした。

見守りやすい角度を、言葉にした日
ヒヤリの翌朝、申し送りのあとに主任さんへ相談しました。「あの方の席、そろそろ見直しませんか」。
主任さんは少し驚いた顔をしていました。「ずっとあの席がお気に入りだったから、変えるの気が引けるんですよね」。その言葉に、わたしも頷くしかありませんでした。
好みを取り上げてしまうのは、違う気がしたんです。だから、席そのものを変えるのではなく、テーブルの向きだけ変えることにしました。丸テーブルを詰所側にすこし回して、庭も見えるけれど、職員からは正面に近い角度で見える位置に。花を諦めてもらうのではなく、両方を少しずつ叶える座り方を探したんです。
実際にテーブルを動かしたのは、夜勤明けの職員が帰る前の、いちばん人手のある時間帯でした。何度か角度を試して、庭の花壇が見える位置と、詰所から目が届く位置の、ちょうど重なるところを探しました。
三ヶ月ごとのケアプラン見直しの場でも、担当のケアマネさんに座席変更の理由を伝えました。「好みを削ったわけではなく、見える角度を変えただけです」。そう説明すると、「なるほど、それなら」と納得していただけました。
決めた角度を、口頭だけで終わらせないこと。それが、次の課題として残りました。

配膳カートの脇に貼った、色分けの座席表
口頭だけで決めたことは、忘れられます。夜勤明けの職員が変わるたびに、また元の並びに戻ってしまう。そんなことを何度か繰り返して、座席表を作ることにしました。
赤は「食事中は目を離さない」、黄色は「ときどき振り返って確認する」、緑は「見守りは最小限で大丈夫」。この三色で、テーブルの位置と向きを書き込んだだけの、簡単な表です。
これを、配膳カートの脇に貼りました。配膳の前に、みんな自然とそこへ目をやってから動き出すようになったんです。特別な会議も、新しい様式も必要ありませんでした。カートの脇に一枚貼っただけです。
数字で劇的に変わったとまでは言いません。それでも、あの方が立ち上がろうとする瞬間を、背中からではなく、正面からとらえられる回数は、明らかに増えました。夜勤明けのスタッフからも「あの席、変えてよかったですね」と声をかけられることが増えたんです。
先日、面会に来た息子さんが座席の変化に気づいて、「あれ、母の席、変わりました?」と聞いてきました。わたしは、角度を少し変えただけで、庭はまだ見えることを説明しました。息子さんは「そうだったんですね、良かったです」と、ほっとした表情を見せてくれました。

「特等席」という呼び方は、今もこの施設で使われています。ただ、意味は少し変わりました。景色がいちばんいい場所ではなく、いちばん安全に見守れる場所。そう言い換えられるようになったのは、あの日の三歩のヒヤリのおかげかもしれません。
あなたの施設の食堂で、いちばん死角になっている椅子は、どこにありますか。
コメント0
まだコメントはありません。
コメント・いいねはアプリまたは会員登録後に行えます。
介護施設で 10 年以上、理学療法士として現場に入ってきました。主任さん・施設長さん・ケアマネさんが翌朝の申し送りで使える「段取り」を中心に、移乗・転倒予防・家族面談・引き継ぎノートの整え方を、現場を責めない温度でまとめます。
この著者の他のコラムを見る →関連記事
食堂の『特等席』をやめた日
10時、おやつの支度が始まる少し前。食堂の窓際の丸テーブルから、88歳の女性がすっと一人で立ち上がりました。 わたしが気づいたのは、廊下の角を曲がった瞬間です。見えていたのは、う…
「リハビリの回数を増やしてほしい」と言われた面談で、最初に渡すものを変えた日
午後2時、面談室の窓から差し込む光が、テーブルの半分だけを照らしていました。壁の時計は少し進んでいて、いつもそのくらいの時刻になると面談が始まります。 「リハビリの回数を、もう少…
移乗の前に、車椅子をひと押しするようになった日
三時のおやつが終わったころの食堂は、いちばん気が緩む時間です。窓際の席は日当たりがよくて、皆さんうとうとしかけることもある、そんな時間帯なんですよ。 窓際のテーブルで、88歳の女…