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現場スキル2026年9月14日約3分で読める

食堂の『特等席』をやめた日

さゆり | 介護施設で気づいた段取りの話
さゆり | 介護施設で気づいた段取りの話
@kaigo_operations
食堂の『特等席』をやめた日
目次

10時、おやつの支度が始まる少し前。食堂の窓際の丸テーブルから、88歳の女性がすっと一人で立ち上がりました。

わたしが気づいたのは、廊下の角を曲がった瞬間です。見えていたのは、うしろ姿だけでした。

椅子の脚が床をこする音がして、振り向いたときにはもう、片足が一歩前に出ていました。間に合いました。でも、あと三歩遅かったら、危なかったと思います。

その日の夜、家に帰ってからも、あの背中がずっと頭に残っていました。もう15年になりますかね、こういう場面ばかり覚えていて、自分でも困るんですけど。

この方は、いつもその席に座っていました。庭の花壇がいちばんよく見える、みんなが「特等席」と呼ぶ場所です。でも詰所からは、ちょうど死角になる位置でもありました。

「特等席」は、誰のための席だったのか

その席は、もともとご家族の希望で決まった席でした。半年ほど前の家族面談で、息子さんから「母は花が好きだから、庭が見える席にしてあげてください」とお願いされたと聞いています。

気持ちは、よくわかります。わたしも同じ立場なら、きっと同じことを頼んだと思います。

ただ、そのあとが問題でした。席替えの基準が、一度も見直されていなかったんです。好みで決めた席が、そのまま何年も固定されていく。特養の食堂では、よくあることです。誰かに悪気があったわけではありません。

申し送りノートを見返してみても、「窓際の席、変わらず落ち着いて過ごされています」という一行はあっても、「その席から職員がどう見えているか」を書いた記録は一つもありませんでした。

転倒予防の視点で見るべきなのは、本人がどこを向いて座っているかより先に、職員からどう見えるか、なんですよね。窓を向いて座れば、庭はよく見えます。でも職員側からは、背中しか見えません。

歩行の評価では、この方の立ち上がりに手すりや支えは必要ないと出ていました。だからこそ余計に、誰も「見守りが必要な方」だとは思っていなかったんです。動ける方ほど、死角に置かれやすい。そのことに、わたしはあの日まで気づいていませんでした。

窓際の丸テーブルで庭を眺める高齢女性の後ろ姿と、詰所側から死角になっている食堂の様子

見守りやすい角度を、言葉にした日

ヒヤリの翌朝、申し送りのあとに主任さんへ相談しました。「あの方の席、そろそろ見直しませんか」。

主任さんは少し驚いた顔をしていました。「ずっとあの席がお気に入りだったから、変えるの気が引けるんですよね」。その言葉に、わたしも頷くしかありませんでした。

好みを取り上げてしまうのは、違う気がしたんです。だから、席そのものを変えるのではなく、テーブルの向きだけ変えることにしました。丸テーブルを詰所側にすこし回して、庭も見えるけれど、職員からは正面に近い角度で見える位置に。花を諦めてもらうのではなく、両方を少しずつ叶える座り方を探したんです。

実際にテーブルを動かしたのは、夜勤明けの職員が帰る前の、いちばん人手のある時間帯でした。何度か角度を試して、庭の花壇が見える位置と、詰所から目が届く位置の、ちょうど重なるところを探しました。

三ヶ月ごとのケアプラン見直しの場でも、担当のケアマネさんに座席変更の理由を伝えました。「好みを削ったわけではなく、見える角度を変えただけです」。そう説明すると、「なるほど、それなら」と納得していただけました。

決めた角度を、口頭だけで終わらせないこと。それが、次の課題として残りました。

座席表を手に、主任さんと相談する理学療法士。段取りメモくんが間に立つ様子

配膳カートの脇に貼った、色分けの座席表

口頭だけで決めたことは、忘れられます。夜勤明けの職員が変わるたびに、また元の並びに戻ってしまう。そんなことを何度か繰り返して、座席表を作ることにしました。

赤は「食事中は目を離さない」、黄色は「ときどき振り返って確認する」、緑は「見守りは最小限で大丈夫」。この三色で、テーブルの位置と向きを書き込んだだけの、簡単な表です。

これを、配膳カートの脇に貼りました。配膳の前に、みんな自然とそこへ目をやってから動き出すようになったんです。特別な会議も、新しい様式も必要ありませんでした。カートの脇に一枚貼っただけです。

数字で劇的に変わったとまでは言いません。それでも、あの方が立ち上がろうとする瞬間を、背中からではなく、正面からとらえられる回数は、明らかに増えました。夜勤明けのスタッフからも「あの席、変えてよかったですね」と声をかけられることが増えたんです。

先日、面会に来た息子さんが座席の変化に気づいて、「あれ、母の席、変わりました?」と聞いてきました。わたしは、角度を少し変えただけで、庭はまだ見えることを説明しました。息子さんは「そうだったんですね、良かったです」と、ほっとした表情を見せてくれました。

配膳カートの脇に貼られた色分けの座席表を指差し確認する理学療法士の手元

「特等席」という呼び方は、今もこの施設で使われています。ただ、意味は少し変わりました。景色がいちばんいい場所ではなく、いちばん安全に見守れる場所。そう言い換えられるようになったのは、あの日の三歩のヒヤリのおかげかもしれません。

あなたの施設の食堂で、いちばん死角になっている椅子は、どこにありますか。

#転倒予防#申し送り#環境調整
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介護施設で 10 年以上、理学療法士として現場に入ってきました。主任さん・施設長さん・ケアマネさんが翌朝の申し送りで使える「段取り」を中心に、移乗・転倒予防・家族面談・引き継ぎノートの整え方を、現場を責めない温度でまとめます。

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