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現場スキル2026年8月3日5分で読める

歩行器のグリップに、指一本分のテープを貼った日

さゆり | 介護施設で気づいた段取りの話
さゆり | 介護施設で気づいた段取りの話
@kaigo_operations
歩行器のグリップに、指一本分のテープを貼った日
目次

朝の光がまだ薄い、7月にしては少し涼しい朝でした。面会前に歩行器のグリップの高さを見て、わたしは手を止めました。79歳の女性の方が、いつも使っている歩行器です。グリップの位置が、いつもより指二本分ほど低くなっていました。

前日の日勤帯で、別の職員が調整し直したと聞きました。悪気はまったくないんです。ただ、その一手が、翌朝の食堂までのわずか数メートルを、少し危ういものに変えていました。

理学療法士として介護の現場に入って、もう15年になりますかね。歩行器や杖の高さは、体格に合わせて数センチ単位で決めるものです。今日は、その数センチが誰にも気づかれずにズレていた朝の話を書きますね。

歩行器が、いつもと違う高さになっていた朝

週2回のリハビリで伺うたび、その方の歩行器のグリップは、腰骨のやや上、肘が軽く曲がる位置に合わせていました。半年前にわたしが評価して決めた高さです。円背が少しあるので、数センチの違いが姿勢に直結する方でした。

食堂までは自分の足で歩くことを、その方はいつも誇りにされていました。「車椅子はまだ早いのよ」が口癖です。だからこそ、歩行器の状態には人一倍気を配っていたつもりでした。

その朝、食堂へ向かう廊下で、いつもより前かがみに歩いておられるのに気づきました。グリップが低いと、体は自然と前に引っ張られる姿勢になります。腕が伸びきった状態で支えるので、踏み出す足も浅くなるんです。

案の定、途中で右足のつま先が軽く床にひっかかりました。ゴム底が擦れる音がして、わたしは思わず駆け寄りました。とっさに歩行器を強く握り直して、転ばずに済みました。ご本人は「大丈夫、大丈夫、慣れてるから」と笑っておられましたが、わたしは笑えませんでした。

ヒヤリでした。

その場でしゃがみ込んで高さを測ると、いつもより4センチ低い。たった4センチです。でも、その4センチが、姿勢と歩幅と、つま先の高さのすべてを変えていました。誰が、いつ、なぜ変えたのか。その場では誰にも分かりませんでした。廊下に立ったまま、わたしはしばらく歩行器を見下ろしていました。

指二本分低くなった歩行器のグリップ

高さがズレる理由は、誰か一人のせいじゃなかった

午後、主任さんに確認してもらうと、前日の夕方、パートの職員さんが「グリップが下がっている気がして」自分の目分量で締め直していたことが分かりました。ボルトを緩めて、ご本人の身長を目で見て、だいたいこのくらいだろう、と合わせたそうです。

その職員さんを責める話ではないんです。むしろ、気にかけて手を掛けてくれたこと自体はありがたいんです。問題は、歩行器の正しい高さを、記録として残す場所がどこにもなかったこと。これが本当の理由でした。

介護施設の物品は、一日のうちで触る人が何人も入れ替わります。日勤、夜勤、パート、そして週2回だけ入るわたし。それぞれが「この方にとって歩きやすそうな高さ」を、そのつど自分の感覚で判断してしまうんです。誰かが直したことすら、次の人には伝わりません。杖や車椅子のフットレストにも、同じことが起きているはずでした。

正しい高さを数字で知っているのは、評価をしたわたしと、長く担当している一部の職員だけでした。知識が特定の人の頭の中にしか残っていない状態は、介護の現場では珍しくないんですよね。申し送りに書かれるのは「歩行器を使用」までで、高さのセンチ数までは書かれません。

わたし自身、若い頃は評価した数値を自分の手帳にしか書いていませんでした。異動や退職で職員さんが入れ替わるたびに、その数値ごと現場から消えていく。今思えば、あれも同じ失敗でした。数字は、書いた本人がいなくなった瞬間に、現場から静かに消えるんです。

主任さんは「みんな良かれと思って触っているんですよね」と、少し困った顔をされていました。わたしも、うなずくしかありませんでした。誰も悪くない。でも、誰も正解を持っていない状態は、続けるわけにいきません。

申し送り室で困った顔をする主任さんと理学療法士

グリップに、指一本分のテープを貼った日

その日のうちに、簡単な印をつけることにしました。用意したのは、養生テープと油性ペン、それだけです。グリップの支柱、正しい高さの位置に、細い色つきテープを一周巻きました。

色は迷った末に、黄色にしました。介護福祉士さんのひとりが「白い支柱だと見落としそうです」と教えてくれたからです。現場で毎日触る人の目線を借りると、選ぶ答えが変わるんですよね。

見た目は本当に地味なものです。でも、誰が調整しても、テープの上端にグリップの下端を合わせれば、迷わず同じ高さに戻せます。目分量で「なんとなく低い、なんとなく高い」と判断する必要が、なくなるんです。

主任さんと一緒に、フロアにある他の歩行器も見て回りました。5台のうち2台、テープを貼る前の時点で、評価時の高さから2センチ以上ズレているものがありました。誰も気づいていなかった数字です。ひとつは半年前のわたし自身の評価そのものが、体格の変化に合わなくなっていたケースでした。テープを貼る作業は、思いがけず記録の点検にもなったんです。

翌週の申し送りの時間に、パートの職員さんたちにも実物を見てもらいました。「触っていいのは、テープの位置に戻すときだけ。それ以外で高さを変えたいときは、わたしか主任に声をかけてください」。ルールは、この一文だけです。

申し送りノートにも、一行だけ足しました。「歩行器の高さは支柱のテープに合わせる。ズレていたら環境調整の欄に記入」。長い説明は要りませんでした。テープという物があること自体が、いちばん分かりやすい申し送りになったんです。

支柱に貼られた黄色いテープと歩行器を確認する手元

印は、次に調整する人への申し送りだった

一週間後、あの方の歩行器を見ると、テープの位置ぴったりに戻っていました。パートの職員さんが「テープがあるから、迷わず直せました。前は不安なまま触っていたんです」と教えてくれました。

その言葉を聞いて、少しほっとしました。あの方を危うい目に遭わせた職員さんも、実は不安だったんですよね。正解が分からないまま、自分の判断で動かなければならない場面が、現場にはたくさんあります。

正しい高さを言葉で伝えようとすると、どうしても「肘が軽く曲がる位置」のような感覚的な表現になります。感覚は、人によって少しずつ違う。でも、テープは何も語らず、ただそこにあるだけで、誰にでも同じ答えを渡せます。

段取りメモくんが、こういう場面でいつも控えている理由が、少し分かった気がしました。人の言葉より先に、物のほうが答えを持っている。そのほうが、忙しい現場では確実に伝わることがあるんですよね。

あの方は、いまも「車椅子はまだ早いのよ」と、食堂まで自分の足で歩いています。歩行器の高さなんて、数センチの話です。でも、その数センチの中に、転倒予防の分かれ目が、静かに隠れています。テープ一本で、その分かれ目を誰の目にも見えるようにしただけなんです。

大がかりな改修も、新しい機器も、必要ありませんでした。すでにある物に、小さな印をひとつ足しただけです。転倒予防というと構えてしまいがちですが、こういう地味な一手のほうが、案外長く現場に残るものなんですよね。

皆さんの現場では、感覚だけで判断されている「誰かにとっての正しい高さ」、他にもありませんか。

廊下でテープの高さに合わせて歩く利用者と見守る段取りメモくん

理学療法士

#転倒予防#歩行器#環境調整#理学療法士
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介護施設で 10 年以上、理学療法士として現場に入ってきました。主任さん・施設長さん・ケアマネさんが翌朝の申し送りで使える「段取り」を中心に、移乗・転倒予防・家族面談・引き継ぎノートの整え方を、現場を責めない温度でまとめます。

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