父の外来で「変わりないです」の隣で黙った日、聞くことを一つに絞った話
目次
火曜の朝8時、父の家の玄関で、車椅子を段差から下ろすのに15分かかりました。
退院してから初めての外来でした。総務の仕事は午前半休にして、7時に自宅を出て、車で40分。装具を着けた父を助手席に乗せ、車椅子を畳んで後ろに積む。それだけで、わたしの腕はもう震えていました。
病院に着いて、受付をして、待合で1時間半。父はうとうとし、わたしは会社のメールを3通返していました。診察室に呼ばれてから、先生が「変わりないですか」と言うまでは、あっという間でした。
父は「変わりないです」と答えました。わたしは、その隣で黙っていました。
診察は、たぶん4分くらいだったと思います。半休を丸ごと使って、わたしが診察室で言えたのは「お世話になります」だけでした。
今日は、その日から次の外来までに、わたしが変えた一つのことを書きます。
「変わりないです」の隣で、言えなかったこと
駐車場に戻って、父をまた助手席に乗せて、シートベルトを締めたところで思い出しました。
先週、夕食のときに父が2回むせたこと。夜中にトイレへ行くとき、手すりを使わずに立っていたこと。朝の血圧を、訪問看護師さんに言われてノートに付けていること。どれも、診察室で言うつもりだったんですよね。
でも、先生の「変わりないですか」に父が即答して、その空気の中で「いえ、実は」と割って入れなかった。父の前で、父の言葉を訂正するようで、口が動かなかったんです。
聞きたいことも、整理できていませんでした。「このまま家で大丈夫か」「デイの回数は今のままでいいのか」「薬はずっとこの量か」。全部が頭の中でまざっていて、どれか一つを選んで言葉にする前に、診察は終わっていました。
帰りの車で、父はご機嫌でした。「先生に変わりないって言ってもらえた」と。
わたしは帰りにコンビニでコーヒーを買って、車の中で5分だけ座っていました。自分を責める気持ちより、次の外来が1ヶ月後だということの方が重かったです。

メモを上下に分けて、「言うこと」三行と「聞くこと」一行にした
その週の訪問看護師さんの日に、思い切って相談してみました。「診察室で、何も言えなかったんです」と。
看護師さんは血圧ノートをめくりながら、「言うことと、聞くことを、分けておくといいですよ」と言いました。先生に伝える「変化」と、先生に聞く「判断」は別物で、混ぜると両方とも言えなくなるのだそうです。
それを聞いて、わたしは総務の癖で、A5のメモ用紙を横線で上下に分けてみました。
上の段は「言うこと」。この1ヶ月で変わったことを、3行だけ。「夕食でむせることが週に2〜3回」「夜中のトイレで手すりを使わず立つことがある」「朝の血圧はノートの通り」。数字が要るものはノートを見せる前提で、行には書きません。
行の頭には、日付ではなく「いつから」を書きました。「退院後ずっと」なのか「先週から」なのかで、先生の受け取り方が違うと看護師さんに聞いたからです。
下の段は「聞くこと」。ここは1行だけにしました。
一つに絞るのは、正直つらかったです。聞きたいことは、まだ十いくつありました。でも、前回の診察は4分でした。三つ用意して一つも聞けないより、一つ用意して一つ聞けた方が、次の1ヶ月が違う。そう考えて、残りはケアマネさんに回すか、次の外来に送ることにしました。デイの回数のことは、その週のうちにケアマネさんに電話で聞いて、「次の訪問のときに一緒に考えましょう」と一個にしてもらいました。
選んだ一つは、「朝の血圧が日によって上下する。父の場合、どのくらいなら様子を見てよくて、どこからは予約を待たずに連絡した方がよいか」でした。
理由は一つで、これだけは先生にしか聞けなかったからです。デイの回数はケアマネさんに聞ける。むせは看護師さんが見てくれている。でも「父の場合の目安」は、主治医の先生の言葉でもらいたかった。
メモは、財布ではなく、通院バッグの内ポケットに入れました。診察券とお薬手帳の間です。受付で診察券を出すときに、いやでも目に入る場所にしてみています。

車の中で、父に「これ、先生に言うね」と先に言った
メモができて、もう一つ気になったのが、父のことでした。
診察室で父が「変わりない」と言った横から、娘が「いえ、むせます」と言う。それは父にとって、どんな気持ちなんだろう、と。父は79歳で、頑固で、人に弱いところを見せない人でした。先生の前では、たぶん「ちゃんとした患者」でいたい。それを娘が横から崩すのは、体のためだとしても、少し違う気がしたんです。
父の「変わりない」は、嘘ではないんだと思います。父にとっての「変わり」は倒れる前と比べた大きな変化で、週に2回のむせは、父の中では「変わり」に入らない。家族が見ている目盛りと、本人の目盛りが違うだけなんですよね。
だから次の外来の日、車の中で先に言うことにしました。
信号で止まったとき、「お父さん、今日は先生に、むせのことと夜のトイレのこと、わたしから言うね」と。
父は前を向いたまま、「言わんでいい」と言いました。想定内です。
「先生が知ってた方が、お父さんが楽になることがあるかもしれないから。言うだけ言って、あとは先生に任せよう」と返しました。父は少し黙って、「勝手にしろ」と言いました。うちの父の場合、これは「わかった」の意味です。
診察室で「変わりないですか」と聞かれて、父はやっぱり「変わりないです」と答えました。でもその直後に、わたしが「父はそう言うんですが、家族から見て三つだけ」と言ったとき、父は止めませんでした。車の中の30秒が、診察室のその30秒を作ってくれたんだと思います。
本人の前で、本人の言葉と違うことを言う。介護の中で、たぶん何度も来る場面です。わたしが今のところ決めているのは、「本人に先に言う」「訂正ではなく、家族から見た追加として言う」の二つだけです。

4分は4分のままで、持って帰れるものが変わった
2回目の外来も、診察時間はほとんど同じでした。長く話せたわけではありません。
違ったのは、上の段の三行を読み上げるのに30秒、聞くことの一行に10秒、先生の答えに1分。それが全部、同じ数分の中に収まったことです。
先生は血圧ノートを手に取って、ページの端に線を一本引いてくれました。「お父さんの場合は、この線を越える日が何日か続いたら、予約を待たずに連絡してください」と。数字はここには書きません。父の場合の目安で、家ごとに違うと言われたからです。
帰りの車で、父は「余計なこと言いおって」と言いました。でも次の朝、ヘルパーさんからのLINEには「お父さん、先生に線を引いてもらったって、うれしそうに話してましたよ」とありました。
その日も、帰りにコンビニでコーヒーを買いました。同じ駐車場で、同じ5分でした。違ったのは、助手席側の通院バッグに、線の入ったノートが入っていることだけです。
診察室の数分は、家族の努力で長くなるものではないんですよね。わたしが変えられたのは、その数分に何を持ち込むかだけでした。「言うこと」を三行、「聞くこと」を一行、そして本人への一声。
もし同じように、外来の付き添いで黙ってしまった家族の方がいたら、まず訪問看護師さんやケアマネさんに「診察で何を言えばいいか」を相談してみてください。先生に聞くべきことと、他の人に聞けることを、一緒に仕分けしてもらえます。どこに相談すればよいか分からないときは、地域包括支援センターが最初の窓口になると聞いています。
親の外来で、家族の方が一つだけ聞くとしたら、それは何ですか。

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